日独交流史
―日本に最初にやってきたドイツ人は誰か?―


 
 
●ドイツ語教師として長年、ドイツの歴史や文化・芸術などにかかわりながら、日本に初めてやってきたドイツ人が誰なのか、これまで一度も考えたことはなかった。正直な話、関心もなかったのである。目はドイツにばかり向いていて、足元を見ていなかったのだ。ところが、先だって偶然にも問題の人物を知ることになった。件の人物はミヒャエル・ホーライターMichael Hohreiter)という。ことわるまでもなく、「日本に初めて」というのは、記録がある限りのことである。
 
●開国以前に我が国を訪れたドイツ人で誰しも思い起こすのは、シーボルトであろう。彼こそは私たちの常識の中に思い浮かぶ最初のドイツ人来訪者ではないだろうか。1823年にオランダ東インド会社の日本商館付医師として来日、当時日本は鎖国中で長崎の出島に住み、愛人「そのぎ」との間に「いね」が生まれて……シーボルトのことをここでくどくど説明するのは蛇足であろう。ところがホーライター氏は1614年から1620年にかけて来日しているという。シーボルトよりも二百年以上も前のことである。そんな昔に……、とひとまず驚きを禁じえない。しかし、時はまさに織豊時代。信長の安土にセミナリオが建てられ、西洋の学問や芸術がさかんに受容されていたことを思い出すなら、うなずける話。日本と西洋とが思いのほか最接近していた時代なのだ。
 
●ホーライターは1591年ドナウ川の筏師の息子として南西ドイツ、シュワーベン地方の小都市ウルムに生まれている。ウルムはドナウ河の畔に位置する町。1613年にドナウ河で筏を操舵(?)中に事故を起こし、損害賠償を請求されるほどの事件になったことが、ホーライターが東方への大航海に乗り出すきっかけとなったらしい。航海については、1614年にアムステルダムを出帆、インド、マダガスカル、ジャワ、スマトラ等を経由して日本に到着、1620年九月に本国に帰還した、とウルム市立図書館所蔵の文書に記されているという。筏、ついに大洋を渡る、みたいな話。
 
●このことは、なにも新発見ということではなく、私が無知であっただけの話である。そこで、さっそくネットで検索してみたら、九州大学のヴォルフガング・ミヒェル教授のホームページに記されていた。ミヒェル教授は、面識はないものの、日本人向けの優れたドイツ語の教科書・参考書を著している親日家。検索では、ホーライターの生地ウルムの市立図書館に関連資料が保存されていることも知れたし、他にも数多くのサイトで言及されていた。
    *ミヒェル教授は「ホーライター」を「ホーエンライター」と表記している。その辺りの事情は不詳。
 
●ホーライターのことを私に耳打ちしてくれたのはS夫人で、夫人のご息女がホーライターの末裔と結婚して、現在ウィーンに住んでいるとのこと。縁は異なもの味なもの、とはこのことだろう。ホーライター家の人たちこそは、日独交流史上の興味深い一ページを飾ることになり、ドイツには人一倍(当然?)関心を寄せている私にとって、S夫人の思いがけない告白は、なかなか味わいのある話ではあったのである。
 



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