●講師:名古屋大学名誉教授 中嶋 忠宏
●日時:毎月第2、第4火曜日 14:45〜16:15
●場所:NHK名古屋放送センタービル
●概要:第3期は、ヨハン・シュトラウスを中心に、舞踏の都ウィーンの時代鏡を覗きます。「会議は踊る」と評されたウィーン会議の後に続くビーダーマイアーの時代も踊りは止まず、ヨーゼフ・ランナーやシュトラウス父子によって数多くの名曲が書かれたワルツに、ウィーン市民たちが市内のあちこちでまるで熱病にかかったかのように熱中しました。ウィンナー・ワルツの華麗な世界にご招待します。
●各回のテーマ:
11(9/23) 鑑賞されるワルツ
12(9/30) 宇宙のワルツ
●講義進行状況:
01 ウィンナー・ワルツの誕生:
すでに18世紀末に顕れ、ビーダーマイアーの時代に火が着いたように燃えあがったワルツという新しい舞踏に、もともとダンス好きのウィーン市民がどれほどフィーバーしたかは多くの記録や証言が残されている。踊り疲れて体調をくずす踊り手が続出し、なかには落命するケースもあったというから、尋常ではなかった。あるいは、身重の女性も臆することなく踊りまくったという危ない話まで伝えられている。さる研究家が指摘しているように、ワルツはウィーン市民にとって麻薬であり亢進剤でもあったようだ。「私なら踊ることを識っている神のみを信じる」と言ったニーチェは、ウィーン市民が真に自分たちの、世界に冠たる舞踏を見いだしたことをどのように評価するだろうか。こうしたダンス熱は、シュティフターの小説やシュヴィントの絵のように総じて内向的で穏やかな印象をあたえるビーダーマイアー時代の、内に秘めた激しい一面をみるよう。その背景として、当局の監視が厳しかったこの時代にダンスにだけは寛容で、貴族も平民も分け隔てなく踊ったということは、体制維持のための、ある種のガス抜きであったかもしれず、ハプスブルク家がこの時代に見せた華麗なるパラドックスであったといえようか。ワルツは、それまでの優雅で礼儀正しいメヌエットの時代が、スピードを追い求めた産業革命の時代のそれへと移行した事の証したりえた。マルセル・ブリオンが「ワルツは、シュトラウス一家とともに真の社会現象としての重要性さえもつことになった」といっている。たかがダンス、されどダンスなのだ。
02 ワルツの先覚者:実際に私たちが作品を聞きうるかぎりにおいて、最初のワルツ作曲家となるヨーゼフ・ランナーを取りあげた。今日ではワルツの父やワルツ王の名声の陰に隠れて影が薄いといった観があるが、ウィーンでの人気には根強いものがある。私事ながら、かつてフランクフルトからウィーンへ初めて飛んだとき、オーストリア航空機のキャビンで流れていた音楽がランナーだった。抒情的で、少しばかりのメランコリーをあんばいよく配合したランナーの舞曲はまさにビーダーマイアーの感覚を過不足なく表している。ショパンやチャイコフスキーやストラヴィンスキーらに少なからぬ影響を与えた点でも、シュトラウスの上をいく。《美しき青きドナウ〜ウィーンのカフェ・ムジーク》と題するソニー・レーベルのCDがある。収録されているのは、タイトルにそぐわず、シュトラウス父子のワルツは2曲のみで、全9曲のうち実は7曲がランナーの作品――《ロマンティックな人々》や《モーツァルト党》、代表作の《シェーンブルンの人々》ももれなく入っている!ランナーの珠玉のワルツがこれだけ収められているのは、シュトラウス・シニアに勝ち目があったかに見える熾烈な〈ワルツ合戦〉への再審(?)で示された心憎い大岡裁きであったかもしれない。ランナーのCDはシュトラウスに比べれば数が少ないので、このディスクは、ハンスリックが形容した「菫の香りがするメロディー」を味わえる得がたい一枚である。
03 ワルツの父:〈ワルツ王〉シュトラウスの父親であったヨハン・バプティスト・シュトラウスは、今日では元旦の日のウィーン楽友協会奏楽堂にて栄誉をあたえられるように、《ラデツキー行進曲》一曲のみで知られるにすぎないかもしれない。しかし、ウィンナー・ワルツの定型を確立したことは記憶されるべきだろう――ヨーロッパ各地に演奏旅行して、ワルツを広めたことも、2拍子のポルカで手腕を見せたことも、フランス由来のカドリールをウィーンに持ち帰ったことも。さまざまな点でランナーと比較されるが、ランナーのどちらかといえばフェミニンな雰囲気とは対照的にシュトラウスは男性的で、押しが強く……、勇壮な《ラデツキー行進曲》にもそうした性格があらわれていよう。それにしても、〈ワルツの父〉がワルツではなく、行進曲によって歴史に名を残しているのはまことに皮肉なことである。では、彼のワルツの作品から一曲選ぶとすれば、たとえば《人生は踊り、あるいは踊りは人生》(作品49)なんぞはいかがだろう。爽やかな感じさえする曲想からは初期のシュトラウスの初々しさが聞こえてくる。なによりもその表題に、舞踏音楽に生涯を捧げたシュトラウスT世の心意気が象徴されているにちがいない。因みに、この曲を息子のワルツ王が《ライムントの思い出》のなかで引用しているし、映画《美しき青きドナウ》にも取り込まれている。
04 ワルツの王:モーツァルトの父親レオポルトがアマデウスを、あるいはドイツに帰化した二代目ベートーヴェンが息子のルートヴィヒをどんなにか精力的に教育して一流の音楽家にしたてあげようとしたことか……片や、シュトラウス父が長男のヨハンに対してどんなにか音楽家への道を閉ざそうとしたことか、両のケースはまことに対照的である。シュトラウス家の場合、職の世襲が一般化している昨今の多くの〈業界〉のことを思えば、珍かなこともあるものである!音楽家がたいそう不安定な生活を強いられる職業であることを骨の髄まで思い知らされた父親がわが子の行く末を思う余りの行動であったと伝記作者は伝える。いずれにしても、シュトラウス父子の軋轢は、華麗なるウィンナー・ワルツの陰に隠された壮大な人間ドラマではあった。結果として、子ヨハンは〈ワルツの父〉を超えて〈ワルツの王〉となる。藍は藍より出でてなお青し、なのだ。父親のあの手この手を使った妨害工作をものともせず、シェーンブルン宮殿そばのカジノ・ドームマイアーで果たしたデビュー当夜は、アンコールの最後で父親の代表作《ローレライ=ラインの調べ》を演奏して、ウィンナー・ワルツの創始者への敬愛の念を忘れなかった。この曲を、シェーンブルンの人々の一夜を偲ぶ意味でも、子のデビュー作《記念の詩》(Sinngedicht)とあわせて聴いてみた。《記念の詩》のほうは、ハープやパーカッションの音色で縁飾りが付けられたエピグラムの風情である。
05 バート・イシュルの夏:シュトラウスがすでに国民的アイドルとして活躍していた19世紀後半のウィーンで、シュトラウスに、当時ウィーンでクラシック音楽の世界を二分していたワーグナーとブラームスの両巨匠から熱いラブ・コールを送られていたことは興味深い。シュトラウスT世のワルツを好んでピアノで弾いたワーグナーがII世の音楽性を高く買っていて、63歳の誕生日にワルツ《酒・女・歌》を自ら弾いたという。より緊密であったのはバート・イシュルで夏の別荘が隣り合っていたブラームスとの交友である。ブラームスもどこかワーグナーと似かよっていて同じく《酒・女・歌》を好み、しばしばピアノで弾いていたという。シュトラウスのほうは、ベートーヴェンの第9交響曲につけられたシラーの詩の一節を表題として借用したワルツ《もろびと手を取り》をブラームスに献呈している。なによりも、ブラームスのシュトラウスへの執心ぶりは、ピアノのためのワルツ集を3曲も作曲していることに表れていよう。ブラームスを持ち上げてくれたハンスリックが4手のピアノ演奏を好んだことに因んで、いずれも連弾用に書かれているが、《愛のワルツ》成立には、シューマンの娘ユーリエとの失恋が絡んでいたというから、恋人とならんで二人でやる演奏という連想があったかもしれない。いずれにしても、桃源郷みたいなザルツカンマーグートを奥に控えたバート・イシュルの夏は眩しい季節である。
06 舞踏会の日々:年明け6日の三王礼拝日から四旬節が始まる前までの間にウィーンでは毎夜のようにさまざまな舞踏会が行われる。当地の言葉でファッシング(謝肉祭)と呼ばれるこの期間の舞踏会は、業種別の組合が開くものが大半を占める。医者、薬剤師、弁護士、精肉業者、クリーニング業界等々……枚挙に暇がない。大学でも教区でも行われるし、舞踏会にはほど遠いとしても、幼稚園でもファッシングはやるのだ(ダンスよりも仮装に力点あり)!しかし、なんといっても圧巻は国立オペラ劇場で行われるオーパン・バルだろう。かつてウィーンでテレビ画面を見た限りでも、正装をしたデビュタント/ティンたちが、座席を取り外したパルテレ(平土間)で踊りまくる姿は壮観というほかない。反体制的傾向をみせたために皇帝フランツ・ヨーゼフの機嫌を損ねたことが禍して、シュトラウスが最高の名誉である宮廷舞踏会音楽監督に登用されたのはようやく中年になってのこと。それは、ワルツ作曲家として脂ののりきった時期のシュトラウスにとってこの上ない栄誉であったばかりか、宮廷舞踏会の側にとっても最も栄誉にみちたことだったにちがいない。ポルカ・シュネルの《観光列車》とワルツの《ウィーンのボンボン》を聞きながら、功成り名遂げたシュトラウスの姿を偲んでみた。両曲とも、貴族たちの最高の舞踏会場であった王宮内レドゥーテン・ザールで初演されている。後者は時の女性であったパウリーネ・メッテルニッヒ侯爵夫人(夫君が宰相メッテルニッヒの息子)に献呈されているが、彼女の名前を冠したオーストリア・ワインが発売されているので、首尾良く一本入手できれば、一献傾けながら、この曲を聴いてみるのも乙なもの。甘党ならまさに〈ボンボン〉をつまみながらもよし。いずれにも合うまことに典雅な円舞曲である。
07 第2のオーストリア国歌:シュトラウスの《美しく青きドナウ》は、ワルツ王を代表する名曲であるばかりか、オーストリアを代表する音楽にもなり、いみじくも〈第2のオーストリア国歌〉と呼ばれたりする。何よりもシュトラウス自身がこのメロディーをたいそう気に入っていて、同家で飼われていたオウムがこのメロディーを覚えていたという。もともとウィーン男声合唱協会から依頼された仕事であった。シュトラウスが先行して作曲したメロディーに合唱協会が都合の良い歌詞を付けたため、この曲はいささか迷走することになる。戯れ歌のような内容の最初の歌詞が、曲の余りの人気ぶりもあってか、格調高い歌詞にとってかわられ、こちらが今日では流布している。もとはといえば、宿敵プロイセンとの戦争に大敗して、ハプスブルク家の威光もこれまでかと思われるほど意気消沈していた皇帝をも民をも、ワルツで元気づけるために依頼されたのだから、元の歌詞もいわれなきことではなかったと思しい。この曲はウィーン市民のための癒しの音楽だったのだ。今日でもホイリゲあたりではヴァイル作詞のほうが歌われ、座が盛り上がるようだ。とまれ、それは多かれ少なかれ政治的な話柄で、シュトラウスの心の中を流れていたのは、ドナウ河のように滔々と流れる4分の3拍子のメロディー。したがってこの曲は、合唱するよりも、むしろこれに合わせて輪舞する光景こそがシュトラウスの心境に近いのではないか。それにしても、さすがオーストリアである。かつての国歌であったハイドン作曲の《皇帝賛歌》は新制ドイツのそれとして〈輸出〉されたし、現行の国歌はモーツァルト作曲といわれ(本当はホルツァーの曲との異説あり)、そしてシュトラウスの《ドナウ》である……音楽大国だけのことはある!
08 ウィーンの森の物語:当初は必ずしも高く評価されたわけではない《美しく青きドナウ》とは対照的に、もう一つの代表曲《ウィーンの森の物語》のほうは初演時からさい先の良い滑り出し。オーストリア帝国宮内省の重鎮ホーエンローエ侯が40歳の誕生日を迎えた祝賀のために作曲されたというご祝儀的な意味もあったかもしれない。この曲が、コンサート・ワルツあるいはワルツ交響曲とも呼ばれたりするように、舞踏のための曲を越えて、交響詩のような表現を得たことが聴く者を魅了したにちがいない。それにウィーンの森はウィーン市民には無条件に心のオアシスではあるし……。さまざまに凝らされた管弦楽法には見るべき、否、聴くべき点が多い。民族楽器のツィターが使われているのもその一つで、文字通り、当時のウィーン児の〈琴線〉に触れたことだろう。ブルーノ・ワルターが戦前にこの曲をロンドンで録音したときも、戦後にウィーン・フィルを振ったときもツィターをヴァイオリンで置きかえたのはいただけないことだった(ようやくコロンビア響とのステレオ録音で原譜に忠実になりはしたけれど)。したがって、この曲に関する限り、ツィターにアントン・カラスを起用し、シュトラウスよろしく立ったままヴァイオリンを弾きながらのスタイルでウィーン・フィルを指揮したウィリー・ボスコフスキーのほうが正統派なのだ。いずれにしても、《ドナウ河》と《ウィーンの森》の揃い踏みで、シュトラウスのウィーンへのオマージュが明瞭なものとなったのは目出度いことだ。因みに、まるでシューベルトのように早逝が惜しまれるオーストリア出身のエーデン・フォン・ホルヴァートに同名の戯曲『ウィーンの森の物語』がある。主人公のアルフレートがドナウ河の畔でシュトラウスの《ウィーンの森の物語》に耳を傾ける場面は、まるでシュトラウスの両曲のもつ存在意義を絵に描いたようなシーンではあった。
09 皇帝のための円舞曲:ワルツから遠ざかっていたシュトラウスが晩年になってひさびさに作曲した《皇帝円舞曲》は、ウィーン・フィル新春コンサートでもしばしばとりあげられるように、シュトラウス=ワルツの代表作のひとつである。曲想もさることながら、表題の〈皇帝〉の二文字も威厳を与えるに一役買っていよう。ベルリンに新装なった演奏会場〈ケーニヒスバウ〉のこけら落としで初演されているとおり、臨席したドイツ皇帝ヴィルヘルムII世に対する栄誉礼の意味をもっていた。この曲は、もともと《手に手を取って》という表題が想定されていた。それが、出版元のジムロックが作曲者に強く提案して現行のものになった。ジムロックによれば、この〈皇帝〉を意味するKaiserは複数形で、フランツ・ヨーゼフI世も含まれているという。因みに、合唱曲版につけられたフォルデラウアー=シェプファー女史の歌詞には、ドイツ皇帝への言及は一言もなく、もっぱらフランツ・ヨーゼフ皇帝の王都ウィーンの賛美に終始している(そのような意味で、《美しく青きドナウ》《ウィーンの森の物語》と合わせて〈ウィーン三部作〉といえよう)――この時点で、〈皇帝〉は単数形になり、いったんドイツへ送り出されたこのワルツは、結局、ウィーンへ里帰りしたことになる。コーダでハイドンの《皇帝賛歌=神よ皇帝を守り給え》のメロディーを隠し味に使っているとの指摘もあり、3月革命時には反=宮廷のスタンスを取ったシュトラウスと宮廷との関係を考えるうえでも興味深い。
10 オペレッタのワルツ:ワルツやポルカ等の舞踏音楽に徹していたシュトラウスが、一転してオペレッタの作曲に立ち向かったことについては、いろいろいわれている。曰く、オペレッタの大御所オッフェンバックの勧めがあった、舞台音楽家として成功したい、等々。いずれにしても、シュトラウスの転身は大成功であった。本家パリのオペレッタにフレンチ・カン・カンが欠かせないように、シュトラウスのオペレッタが自家薬籠中のものとしたワルツと深いかかわりを持っていたことがウィーン市民の興をそそったことは間違いない。代表作《こうもり》はその典型である。作品のテーマの基本をなすトリックが、〈こうもり博士〉ことファルケ博士が仕組んだ仮面舞踏会にあることはいうまでもない。仮装した資産家のアイゼンシュタインが仮装した妻ロザリンデに言い寄るのはいかにもオペラ・オペレッタ的なシェーマであるにしても、ロザリンデにハンガリーの貴婦人の仮装をさせて、チャルダッシュを歌わせるのはすぐれてウィーン的。近代になって仮面舞踏会は廃れてしまい、流行らないが、公の場で堂々と身分を隠せる往昔のならいに注目したことは、作劇上、まるでコロンブスの玉子のように目からうろこの着想であった――このオペレッタの成功の影にリブレットの匠ありである(台本担当のハーフナーとジュネはビゼー=《カルメン》の作家でもあった!)。ウィーンの〈行く年来る年〉に欠かせない《こうもり》は、舞踏会の興奮とオペレッタの軽妙さの両方を味わえる佳作である。ハンガリーの〈貴婦人〉に与えた「金時計」といい、舞踏会を要所でもりあげる「シャンパン」といい小道具にも抜かりはない。
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●参考書=オーストリア、ウィーン関係:
講義の中でも必要に応じて参考書を紹介したりしていますが、ここでは基本的な図書だけをあげておきます。
1) 池内紀/南川三治郎著『ハプスブルク物語』(新潮社とんぼの本)
2) 海野弘他著『ハプスブルク家の女たち』(GAKKEN)
3)加藤雅彦著『図説 ハプスブルク帝国』(河出書房新社ふくろうの本)
……いずれも写真や図版満載で手軽に興味深く読める、格好の〈ハプスブルク家のウィーン〉入門書。レファランスとしても使えるでしょう。
また、手元に歴史年表や地図を置いておくと役に立つでしょう。年表といえば、中学や高校の歴史の時間みたいな感じはしますが、でも、フランツ・ヨーゼフ帝の御代に起きたさまざまな出来事を考える場合、そのとき日本はどんな時代であったのか、それがわかれば、親近感がわいてくるはず。たとえば、ウィーンで万博が開かれた時(1873年)、日本は?……ここで少し日本史の勉強です。この前の年に、新橋と横浜の間に鉄道が開通し、なんと太陽暦が採用されているのです!日本がようやく近代国家になり始めたのですね……。
さて年表は以下の2冊がお勧め。
1) 『世界史年表・地図』(吉川弘文館)
2) 『山川 世界史総合図録』(山川出版社)
……2)はレイアウトもよく、テーマに応じてカラー図版が多数配置されているので、親しみやすく、テーマごとの整理もしやすい。しかし、オーソドックスな年表のスタイルを求めるなら1)の吉川弘文館版。