フランツ・ヨーゼフ帝の
  華麗なるウィーン

――NHK名古屋文化センターで行っている芸術講座の紹介です――
――NHK
講座《フランツ・ヨーゼフ帝の華麗なるウィーン》(第V期)
担当:名古屋大学大学院教授 中嶋 忠宏
今期のサブ・テーママーラーのウィーン
開講時期:2004年10月〜2005年3月
時間/場所:毎月第2、4火曜日の2:45開始。NHK名古屋放送センタービル内。
概要:《フランツ・ヨーゼフ帝の華麗なるウィーン》(第V期)は、特別講義として音楽家グスタフ・マーラーを集中的に取りあげます。作品はもとより、マーラーの音楽環境――ブルックナーやワルターとの交友、帝室オペラ劇場、妻アルマ等にも触れ、マーラーとウィーンを堪能する百科です。マーラーがお好きでない方もウェルカムでーす
 
各回のテーマ(予定):
02(10/26):さすらう若人
03(11/9):マーラーの〈長編小説〉
04(11/23):アッター湖畔の夏 
05(11/30):宮廷オペラ劇場
06(12/14):《少年の魔法の角笛》
07(1/11):アルマとの出会い
08(1/25):アダ−ジェットの響き
09(2/8):マーラーと世紀末ウィーン
10(2/22):大地を歌うマーラー
11(3/8):ウィーンから新世界へ
12(3/22):終わりの歌
 
講義進行状況
01(10/12):ウィーンのマーラー:音楽家マーラーに特化したシリーズ《華麗なるフランツ・ヨーゼフ帝のウィーン》第V期の第1回目。ボヘミヤのカリシュトに生をうけ、イーグラウ(現チェコ領)で幼少期を送ったグスタフが音楽の都ウィーンに出てくるまでを追跡した。豊かではなかった家庭環境にあっても、栴檀(センダン)の木はすくすくと〈芳しく〉生育し、コンセルヴァトワール(ウィーン音楽院)を主席で卒業して、ライバッハ市立歌劇場の指揮者としてデビューするにいたる……サクセス・ストーリーはいつ聴いても面白いもの! その頃に作曲された歌曲集《若き日の歌》から第7曲《夏の歌い手交代》を聴きながら、若書きの作であるにしても、そこに〈未来の同時代者〉が現前するのを予感した。カッコウ死すとも、ナイチンゲールがいる!――夏の到来を待たずに主役を譲り渡した郭公が若き時代のマーラーなら、「いつも歌を忘れず陽気に跳びはねている」ナイチンゲール夫人こそ、功成り名とげた、あのグスタフ・マーラーだろうか?はたまた、マーラーのカッコウはどんな風に鳴くのだろう?
 
参考書:講義の中でも必要に応じて参考書を紹介したりしていますが、ここでは基本的な図書だけをあげておきます。
1) 池内紀/南川三治郎著『ハプスブルク物語』(新潮社とんぼの本)
2) 海野弘他著『ハプスブルク家の女たち』(GAKKEN)
3)加藤雅彦著『図説 ハプスブルク帝国』(河出書房新社ふくろうの本)
……いずれも写真や図版満載で手軽に興味深く読める、格好の〈ハプスブルク家のウィーン〉入門書。レファランスとしても使えるでしょう。
 また、手元に歴史年表や地図を置いておくと役に立つでしょう。年表といえば、中学や高校の歴史の時間みたいな感じはしますが、でも、フランツ・ヨーゼフ帝の御代に起きたさまざまな出来事を考える場合、そのとき日本はどんな時代であったのか、それがわかれば、親近感がわいてくるはず。たとえば、ウィーンで万博が開かれた時(1873年)、日本は?……ここで少し日本史の勉強です。この前の年に、新橋と横浜の間に鉄道が開通し、なんと太陽暦が採用されているのです!日本がようやく近代国家になり始めたのですね……。
 さて年表は以下の2冊がお勧め。
1) 『世界史年表・地図』(吉川弘文館)
2) 『山川 世界史総合図録』(山川出版社)
……2)はレイアウトもよく、テーマに応じてカラー図版が多数配置されているので、親しみやすく、テーマごとの整理もしやすい。しかし、オーソドックスな年表のスタイルを求めるなら1)の吉川弘文館版。
 
当講座の歩み:このシリーズは1999年(平成11年7〜9月)の夏季講習《歴史散歩―ハプスブルク家のウィーン》から始まりました。以後、休みなく続いて現在にいたっています。以下の講座タイトルのうち、《ルートヴィヒ》のみドイツが舞台で、他はすべてウィーンがテーマです。《二都物語》ではザルツブルクもとりあげました。
これまでの講座タイトル:
《ハプスブルク家のウィーン》
《オーストリア二都物語》
《ウィーン芸能回り舞台》
《モーツァルトのウィーン》
《ベートーヴェンのウィーン》
《ルートヴィヒU世のロマンを求めて》
《シューベルトのウィーン》
《ブラームスのウィーン》
《フランツ・ヨーゼフ帝の華麗なるウィーン》(第T期)
《フランツ・ヨーゼフ帝の華麗なるウィーン》(第U期)
各講座はそれぞれ半年分に相当。
 
●《フランツ・ヨーゼフ帝の華麗なるウィーン》(第T期、第U期)(2003年10月〜2004年9月)でとりあげたテーマ:
 
第T期
01:フランツ・ヨーゼフT世即位:メッテルニヒ体制が三月革命によって終焉をむかえ、若きフランツィが皇帝につき給うた経緯。
02:帝都ウィーンの大改造:ウィーンの町を取り巻いていた城壁が取り壊されて、跡地に環状道路が築かれウィーンは今日見る近代都市へと変貌していく。ウィーンのゼネコン大繁盛。
03:ラデツキー将軍:オーストリアの国民的英雄ラデツキーの活躍ぶり。シュトラウスT世の《ラデツキー行進曲》で心はもう迎春気分!
04:ヨハン・シュトラス(1):ワルツのシュトラウス〜ワルツ《皇帝円舞曲》。シュトラウスとフランツ・ヨーゼフとの関係。
05:ヨハン・シュトラス(2):オペレッタのシュトラウス〜代表作《こうもり》を鑑賞。ウィーンのジルベスター(大晦日)はどんなふう?「明けましておめでとう」をドイツ語でなんて言うのかも学びました。
……ここで越年。《こうもり》で行く年来る年――これってウィーン風!
 
06:ヨーゼフ・ランナー:シュトラウス父の良きライバルとして、ともに〈ワルツ合戦〉を繰りひろげたランナーの人となりと音楽とを紹介。鑑賞した曲:《宮廷舞踏会》《ロマンティックな人々》《モーツァルティアン》《シェーンブルンの人々》(以上ワルツ)と《タランテラ・ギャロップ》。《モーツァルティアン》はモーツァルト・オペラの愛好家にはこたえられない曲。ワルツになったモーツァルトとは?グリルパルツァーの短編小説『ウィーンの辻音楽師』はシューベルトがモデルになっているという説もあるけれど、そうであるなら、ランナーも候補にあげていいのではないか。主人公の〈辻音楽師〉はヴァイオリン弾き……ランナーも、もともとヴァイオリンの名手であったし、ウィーンのビーダーマイヤー的雰囲気をたたえている点では、まさにシューベルトに酷似しているのだから。ウィーン大学の音楽学教授であったハンスリックが「すみれの香りのする音楽」と評したとおり、ランナーのワルツをひとたび聴けば、上品で軽快で、しかし、ちょっぴりセンチな情感が忘れられなくなる。
07 :ご成婚――皇妃エリザベート登場!:今やオーストリアのみならず、全世界的なヒロインともいえる皇妃エリザベートをめぐる話題はあまりにも多く、ワン・レクチャーだけではとても語り尽くせない。ここでは、フランツィとシッシーとの出会いから、華燭の典を経てハンガリー国女王に戴冠されるまでの、シッシーが比較的幸福であった時代をレビューした。ヴィッテルスバッハ家のマクシミリアンT世の娘ゾフィーがハプスブルク家のフランツ・カールに嫁し、二人の間にフランツィが生まれ、そのフランツィが、マクシミリアンのもう一人の娘ルドヴィカの次女シッシーを娶る……かつて神聖ローマ帝国を担った両国の〈因縁のドラマ〉を見る思いがする。世紀のカップルが新婚時代を過ごした時代を、また皇太子ルドルフが生まれた頃を偲びながら、ウィーン南郊のラクセンブルクに遊ぶのもまた一興かな!
08: コーヒーと甘味のウィーン:ウィーンの甘味から、ハプスブルク家の食文化を考える。ハプスブルク=オーストリアは、料理では美食大国フランスに一歩も二歩も譲るとして、デザートでは負けていない(ハプスブルク家はアドリア海域を支配下におさめた時代もあったけれど、海の幸に弱いかな……)。クロワッサンやクグロフ(グーグルフップフ)はマリー・アントワネットのお輿入れとともにブルボン家=フランスに伝えられたもの。ウィーン菓子のバラエティの豊かさは、まさにハプスブルク家の広大な版図を反映している。また、ウィーン菓子とコーヒーとの親密な関係も見逃せない。シュトラウスU世のワルツ《ウィーンのボンボン》を聴きながら、今宵、食指が向くのは、カイザーシュマレンかリンゴのシュトゥルーデルか……?それとも、シッシーゆかりのスミレ・ボンボンだろうか?
09 : レハール(1):金と銀のレハールは銀ということ!……ウィーン・オペレッタの〈銀の時代〉を代表するレハールの第1回目として、ウィーン・オペレッタ史を簡単にまとめ、レハールのオペレッタの特徴を浮かび上がらせようとした。
デビュー作となったワルツ《金と銀》や《ウィーンの女たち――ピアノ調律師》序曲、《ルクセンブルク伯爵夫人》ワルツを、レハール自身が1947年にチューリヒ・トーンハレ管弦楽団を振ったディスクで鑑賞した。レハールは、自作自演が聴けるほどに私たちには近しい音楽家なのだ。他に、銀の時代の音楽家オスカール・シュトラウスの《チョコレートの兵隊》ワルツやエメリッヒ・カルマンの《マリーツァ伯爵夫人》ワルツを、趣向を変えてマントヴァーニの演奏で聴いてみた。どれも、映画音楽のように甘く、切なく、ロマンティックで、イケテルのだ。金もいいけど銀もまた良し。
ウィーン19区のヌスドルフにあるレハール=シカネーダー館(Lehar=Schikanederschloessl)はレハール・ファン必見。
10: レハール(2):レハールの2回目は、代表作《メリー・ウィドウ》に集中して、〈ヴィリアの歌〉〈メリー・ウィドウ・ワルツ〉〈女のマーチ〉といったヒットナンバーを鑑賞した。すったもんだの挙げ句に結ばれたダニロとハンナの恋物語を、あなたはどのように受けとめ、めでたき二人をどのように祝福しますか?
レハールの締めくくりとして、彼が夏の住まいをバート・イシュルに移してからの、特に戦時下から戦後にかけての生活と活動を振り返った。〈レハールの街〉イシュルにある旧宅(現在はレハール博物館)は、功成り名遂げたレハールの熟年・晩年の時代をつぶさに実感できるところ。ザルツカンマーグートに旅する機会があったなら、まずそこに立ち寄り、あとはカイザー・ヴィラに遊んでフランツ・ヨーゼフ帝とエリザベートの出会いを偲び、王室御用達の歴史を誇るカフェ・ツァウナーでツァウナー・レハール・トルテに舌鼓を打つのはいかが?
11: 舞踏会の日々―ウィーンは踊る―:冬は舞踏会の季節。仮面をかぶって踊り狂うことは、謝肉祭=カーニバル(Fastnacht、南ドイツやオーストリアではFasching)の一環なのである。ワルツの都ウィーンでは、ウィーン子すべてが上はオーパンバルから下は地区の舞踏会まで、さまざまなところで夜の更けるまで、いや、夜明けまで踊り明かす。謝肉祭から四旬節を経て復活祭にいたる暦の流れをまず詳述し、次いで、ファッシングの舞踏会のさまざま――ウィーンの各種バル、ダンススクール、舞踏会場を覗いてみた。〈踊るウィーン〉の締めくくりとして、アドルフ・ミュラーがヨハン・シュトラウスの同名のワルツを下敷きにしてオペレッタ化した《ウィーン気質》から、舞踏場面を鑑賞した。あなたはどの舞踏会で誰と踊りたい?
12: フランツ・ヨーゼフの眼差し:今期のテーマ〈ワルツとオペレッタの都ウィーン〉を、ラルフ・ベナツキーのオペレッタ(正確にはジングシュピール)《白馬亭にて(Im weissen Roessl)》で締めくくった。舞台になっているヴォルフガング湖やその周辺は、ウィーンっ児のみならず、世界中のツーリストを誘うリゾート地(これには映画《サウンド・オブ・ミュージック》も一役買っている)。この作品は、フランツ・ヨーゼフ帝がお出ましになることもあり、じつにありがたいオペレッタなのだ。因みに、ベナツキーの本名はルドルフ・フランツ・ヨーゼフ・ベナツキー。皇帝が登場する《白馬亭》で名をなしたベナツキー、因縁ですねえ。ハイライトとして、「ザルツカンマーグートはほんに愉しきところかな(Im Salzkammergut, da kann man gut lustig sein.)」と歌われる……ちげえねえや!
 
 
第U期
01. ヴィトゲンシュタイン家の人たち:鉄鋼業で財をなしたヴィトゲンシュタイン家は、世紀転換期のウィーンでは有数の大富豪であった。当主カール・ヴィトゲンシュタインは、アレーガッセの住居(家屋敷はほかにもあった)を音楽サロンとして開放。そこにはブラームス、ヨアヒム、マーラー、ブルーノ・ワルター、パブロ・カザルスなどが出入りし、さながら、音楽の都の貴賓室の感があった。クリムトに心酔した長女ヘルミーネ、先進的な知的女性の三女マルガレーテ、左手のピアニストとして活躍したパウル、末っ子ルートヴィヒなど、ヴィトゲンシュタイン・ファミリーの知的活動に、世紀末ウィーンの輝かしい一断面を観る思いがする。クリムトの《マルガレーテの肖像》、ワルター+ウィーン・フィルによるベートーヴェンの《田園》やラヴェルの《左手のためのPf協奏曲》を手がかりに、ヴィトゲンシュタイン家の「人間性と教養にみちあふれた雰囲気」(ワルター)を感受しようとした。
02.精神と性格の分析:ウィーン世紀末の特徴の一つに、それまで精密科学がとりあげなかった主観的事象を科学的研究の対象として考察しはじめた、という点があげられる。心理学や精神分析の興隆もその典型。23歳の若さで、ベートーヴェン最期の家の一室で自殺した奇才オットー・ワイニンガーと、精神分析や夢判断の始祖シグムント・フロイトをとりあげ、反ユダヤ主義的伝統の強かったウィーンで、ユダヤ系の両人がいかにアイデンティティーを求めて苦悩したか、その軌跡をたどろうとした。シュヴァルツ・シュパーニアー館(ワイニンガー自殺の翌年に建て替えられ現存せず)で作曲された最晩年の作品《弦楽四重奏曲ヘ長調・作品135》の終楽章で「Must it be?――It must be!」と自問自答するベートーヴェンの境位が、どこかでワイニンガーやフロイトの生のテーマと響きあっているようである。
03.都市ウィーンのデザイン:世紀転換期のウィーンに、華麗で眩しく、しかしメルヘンのように初々しい風貌をあたえた建築家オットー・ワーグナーの代表作をひととおり見学した。銅やアルミ、彩色タイルやガラスといった当時としては斬新な建材、白や緑や金色の配色、そして花模様や天使像といったモティーフ……それらが巧みに調和して不思議な世界が生まれている。ワーグナーこそは、まるで魔法使いのような都市のデザイナーであった。そして、歴史主義からユーゲントシュティールへと方向転換して数々の名建築を生みだしたワーグナーのほぼ全作品をみることのできるウィーンは、ワーグナー博物館でもあるのだ――ここを歩けば、古き伝統から新しい意匠が生みだされる秘法に触れる思いがする。なお、トーマス・ベルンハルトの小説『ヴィトゲンシュタインの甥』は、ワーグナーの残した珠玉の遺産、あのアム・シュタインホーフの教会が登場するので、興味深い参考文献である。
04.ヴェール・サクルム(聖なる春):〈ヴェール・サクルム〉とは、1897年に設立されたウィーン分離派の機関誌の名前。彼らは、アカデミーを頂点とする保守的な芸術からの〈分離〉を希求し、新しい時代の到来をこの言葉に託したのである。聖なる春とは、彼らの守護神であった女神アテネーや英雄テセウスを考えれば、神話的に神聖な春であったのだろう。この雑誌には、クリムトやコロ・モーザー、ヨーゼフ・ホフマン、アルフレート・ロラー等の名だたる芸術家たちが作品を発表し、さらに内外の文学者・文化人も寄稿した。ドイツの《Pan(牧神)》や《Jugend(青春)》といった雑誌と肩を並べる、否、それらを超える高級雑誌であった。講義では、〈聖なる春〉をキー・ワードに、分離派の消長とウィーン工房の仕事、そして分離派時代のクリムトの仕事をとりあげた。〈VER SACRUM〉の2語は、今日でも〈金色のキャベツ〉を戴く分離派会館の外壁に金色に燦然と輝いている――短くはあったものの世紀末ウィーンを訪れた真正の春を夢見続けるかのように……。同会館は国立歌劇場から歩いてすぐのところ、ウィーン滞在の折りは、ぜひとも〈聖なる春〉の証を一目見られよ!
05.カフェの詩人たち:〈ウィンナー・コーヒー〉のように、ウィーンとコーヒーとの関係はわかちがたい(他の都市でこうした地名形容詞は考えられない)。同時にカフェもまたウィーン独自の発展をとげてきた。とりわけ、詩人たちのたまり場となった、いわゆる〈文学カフェ〉抜きでは、フランツ・ヨーゼフ帝の華麗なるウィーンは語れまい。世紀転換期にホーフマンスタールやシュニッツラー等の〈若きウィーン派〉の詩人たちが、詩情あふれる世紀末文学をカフェから発信したからである。講義では、そうした歴史を振り返りながら、GriensteidlやCentralを中心に往年の文学カフェをハシゴした。しかし、話だけではカフェの実態はわからず、かといって……、せめてはアントン・カラスの《カフェ・モーツァルト=ワルツ》を聴きながら、しばし、トーネットの椅子によりかかってメランジュを啜る、ウィーンの自分を夢想しよう!因みに、映画《第三の男》で名を揚げたツィター奏者のカラスは、原作者グレアム・グリーンとともにカフェ・モーツァルトに通い詰めていた由。
06.二人目の神童あらわれる: 神童アマデウスに続いてウィーンに現れた二人目の神童とは詩人のフーゴー・フォン・ホーフマンスタール。彼もまたカフェを活躍の舞台とした典型的な世紀末ウィーン文士であった。華麗で端正な詩句の奥に豊かな人生経験と深い叡智をたたえた抒情詩や詩劇の数々を高校在学中に発表して、世間を驚かせながら、これまた華麗なる文体によって綴られた散文《チャンドス卿の手紙》によって突然の抒情詩放棄を宣言したことも、反語的なまでに過激な神童の素顔だったろうか?それともアマデウス顔負けの悪戯だったのか?
 抒情詩の〈宴〉果てた後は、もっぱら戯曲やオペラ台本や散文の創作に向かい、古き佳きオーストリアの伝統にも与した。〈夕暮れ〉の詩人は、時代の生き証人として、ハプスブルク家のオーストリアの凋落を予感し、見届けたのである。「夥しい運命が私の運命とともにうごめき/人間の存在はもつれあいながらそれらすべての運命を演じている/そして私の使命は、こうした生の/あえかな炎や乏しい竪琴をこえたものだ」と歌った詩編の最後の2行が、カルクスブルクにある詩人の墓碑に刻まれている。神童の自己証明となるかのような力強い絶唱である。
07.恋のカレイドスコープ:《恋愛三昧》《輪舞》《ベルタ・ガルラン夫人》等、世紀転換期ウィーンの恋人たちの生態を華麗に、ときには大胆に描いて物議をかもし、そして自らも最期の時まで恋に生きた作家シュニッツラーの目くるめく万華鏡を覗いてみた。高名な耳鼻咽喉科医の息子としてウィーンに生まれ、フロイトの感化のもと精神医学の道を歩んだシュニッツラーは、催眠術や暗示療法に造詣が深かった。そんな彼が、精神治療のみでは飽きたらず、劇作や小説の領分でも、崩壊しつつあったハプスブルク家の市民たちに効果満点の暗示をかけ、眠らせ、夢見させて、寝入った頃合いに無意識を語らせたのだ……今宵また、自作のドラマ《パラケルスス》に登場する同名の魔術師よろしく、ブルクやアカデミー、ヨーゼフシュタットの劇場で、良質な真の演劇愛好家に催眠をかけ続けている。
08.音楽の都の音楽地図:世紀転換期に活躍した新ウィーン楽派の御三家シェーンベルク、ウェーベルン、ベルクのうち、数こそ多くはないけれど、珠玉の名作ばかりを残したアルバン・ベルクを取りあげ、オペラ《ヴォツェック》やヴァイオリン協奏曲に焦点を絞って、その音楽の秘密に迫ろうとした。いずれも無調の技法で書かれていながら、古典的仕掛けも盛りこみ、ざわざわと心惹かれる親近感をおぼえる!――シェーンベルクの高弟として新しい時代にふさわしい音楽の改革を遂行したいっぽうで、ウィーンの自然を養分として伝統に回帰しようとしたベルク音楽の本性を、彼の眠るヒーツィング墓地の木の十字架の墓碑がなによりも物語っているようだ。薄幸の少女マノン・グロピウスのレクイエムとして書かれた哀切のVn協奏曲はベルク自身のレクイエムとなってしまう……これもまた、フランツ・ヨーゼフ帝の華麗なるウィーンで繰りひろげられた運命的な感動のドラマの一つではないだろうか。
09.《ウィーン、わが夢の街》:ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、ブラームス、シェーンベルク、ベルク、ウェーベルン――音楽の都ウィーンは並み居る巨匠たちの音楽てんこもり。それにオペレッタの名曲も、シュトラウスやランナー等のワルツ、ポルカも欠かせない。しかし、これでもまだ足りない。森の石松ではないけれど、大切なもうひとつのウィーン音楽を忘れてもらうわけにはいかない。それがシュランメルンである。ヨハンとヨーゼフのシュランメル兄弟がはじめたカルテットによる音楽は、旗揚げしたワイン酒場の外に出て、皇帝フランツ・ヨーゼフやルドルフ皇太子からしもじもにいたるまで、なべてのウィーンっ児を虜にした。ウィーン・フィルの指揮者もぞっこんだった。シュランメルンは、瞬く間に真のウィーンの音楽となったのだ。フィアーカ(二頭立ての馬車)の御者たちが得意の喉でシュランメルンの普及に貢献したのも興味深い話。講義では、ヨハン・シュランメルの《ウィーンはウィーン》とジーツィンスキーの《ウィーン、わが夢の街》を鑑賞した。ウィーンの音楽とはいえ、シュランメルンは、出自からしてもホイリゲ(酒場)で演奏される音楽。想いはグリンツィングへ、ヒーツィングへ、シュタマースドルフへ……ホイリゲの軒先に吊された〈松の小枝〉が今宵もまた夢の世界へと誘う。
10.皇妃の夢のあと:第10回目はシッシーこと皇妃エリザベートにスポットライトをあてた。――雲の上の人、近づきがたい女性、といえばそうには違いないけれど、しかし、与えられた境遇のもとで精一杯に自己主張した、とらわれのない真実の女性、滅びつつあったハプスブルク家の切り盛り役フランツ・ヨーゼフ一世の妻として生きた一女性としてみるなら、彼女が演じた運命のドラマにも親近感が湧いてくる。ミュージカル《エリザベート》を盛りあげるシッシーの絶唱「私は私のもの」に魂をかっさらわれながら、史上稀に見るヒロインたりえた殿上人の生涯を、ブルクはいうまでもなく、ラクセンブルク、ゲデレ、アキレイオン、ヘルメス・ヴィラ等ゆかりの城館を訪れるという形式でたどってみた。
11.血液型の発見:フランツ・ヨーゼフ帝の華麗なるウィーンを、〈血液〉をキーワードとして考察した。まずは、《ウィーン気質》と訳されるヨハン・シュトラウス子のワルツ《ウィーンの血》(Wiener Blut)。もともと皇帝夫妻の次女ギーゼラの婚礼祝賀のために書かれたおめでたい音楽、しかし、シュトラウス没後に作曲されたアドルフ・ミュラーの同名のオペレッタが歌い上げるように、「踊りが好きで、心は陽気、憂いも悩みも忘れてしまう」ワルツの歌を共有するウィーンっ子のすべてに流れている血液。二に、ABO血液型がウィーンっ子のラントシュタイナーによって発見されたこと。輸血が安全にできるのも、血液型占いができるのもラントシュタイナーさまさま。そして、三に皇妃エリザベートに流れていたヴィッテルスバッハ家の呪われた血液。同家には変人・奇人が少なくなかったが、謎の溺死事故によりみまかったバイエルン国王ルートヴィヒU世こそはその最たる人。ルートヴィヒと血縁関係にあったエリザベートのご心労いかばかりであったか・・・。
 
12.うたかたの恋:〈うたかたの恋〉――仏・米で映画にもなり、宝塚歌劇の定番ともなっている悲恋の物語。ウィーン南郊マイアーリングの狩猟館で皇太子ルドルフが男爵令嬢マリー・ヴェツラを道連れに果てた最期の悲劇は、どこまでがロマンで、どこまでが狂気の沙汰であったのか、知るよしもない。百年余も後の1992年にハイリゲンクロイツ修道院の、ヴェツラが葬られた墓が荒らされた事件がますます謎を深める。いずれにしても、皇太子の死は、比類のない歴史を誇ったハプスブルク王朝を死滅させるにたる決定的な出来事となる。「ルドルフが皇帝になっていたら・・・」と、たびたびため息混じりに語らる。ハプスブルク家で、これほど歴史上の「もしも」が語られる人物は他に例がない。
 マイアーリングの狩猟館でとどろいた二発の銃声、そして、後に世紀が変わってサラエヴォで鳴り響いた銃声が、ハプスブルク家消滅の文字通り〈引き金〉(!)となったことを、同家の始祖ルドルフは彼岸でどのように見つめたことか!――この王朝の終焉は、あまりにきな臭く、喧しかったのだ。《フランツ・ヨーゼフの華麗なるウィーン》第U期、これにて終了。
  
更新日時:
2004/09/28


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Last updated: 2004/10/12